開館30周年記念のクリアファイルの説明

 開館30周年記念クリアファイルのそれぞれの内容の説明は次の通りです。

 I・「責善会規則」

 小野路、野津田、上・下小山田村を始めとする冬村落の指導者たちは、文明開化の風潮の中で、修身斉家の儒教主義を根底にもつ修養組織をめざし、1878年(明治11)3月「責善会」を設立しました。「責善」とは、『孟子』の 「責善朋友之道也」(善を責むるは朋友の道なり)に由来します。名前の通り、会は相互批判により高めあうことを目的に、定期的に討論会を開き運営していましたが、発言権を平等に保障するなど、新たな時代に対処する豪農らによる学習結社の先駆けといえます。親子以上の年代差を乗り越えて27名の会員が結集した「責善会」は、その後の自由民権運動へと引き継がれていきます。

Ⅱ・「融貫社規則」(案)                                                           

   北海道官有物払下げ事件を契機に、明治14年の政変が起き、自由民権運動の気運が盛り上がっていた10月、初めての全国的な政党自由党が結成されます。ほぼ期を同じくして、石阪昌孝らは原町田において政治結社の「融貫社」を発足させるべく、奔走していました。1881年(明治14)8月に作成された規則案の「緒言」では、人民の「自由幸福」「自由権利」 が雄弁に語られています。この規則案は11月3日の検討会を経て改訂され、第一条には「我国立憲政体ノ基礎ヲ確立スル」目的を掲げています。社員は約150名と報道されていますが、民権思想の学習と普及のため演説討論会を開催し、また新聞発行が目指されています。「融貫社」は翌年の「集会条例」改正により解散し、学術講究の「融貫社講学会」に改編し、社員たちは直接中央の自由党に入党していきます。 

Ⅲ・「申合規則並ニ維持法決議案」                                              

   1881年(明治14)に就任した松方正義大歳卿のデフレ政策により、明治10年代後半になると物価が急落します。1883年(明治16)から85年にかけての農村不況下で、養蚕経営や生活維持のため負債の年賦返済と利子の減免を要求する負債農民の騒擾事件が、関東地方を中心に頻発しました。神奈川県下では、自由党員が仲裁活動に奔走するなどして問題の解決が図られますが、不調に終わります。84年11月以降、県下の負債農民たちは、武相7郡150ヵ村にまたがる統一組織を作り、それまでの債主への個別交渉から戦術転換して、郡長・県庁への嘆願・交渉へと運動を進めていきます。その転機となったのが高座郡の相模原で開いた 「年賦党員ノ臨時総会」で、「申合規則並ニ維持法決議案」を作成して統一的な指導部を形成しています。彼らは、実カ行使は抑制しつつも、組織的な団結力を背景にして負債条件の緩和を求めてゆきます。なお、相模原市の青柳寺境内には、「武相困民党発祥之碑」が建立されています。